ハワード・フローリー
|
|
この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。
(2023年8月)
翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
Howard Florey ハワード・フローリー |
|
---|---|
|
|
生誕 |
Howard Walter Florey 1898年 9月24日 イギリス 南オーストラリア植民地 アデレード |
死没 |
1968年
2月21日
(69歳) イギリス イングランド オックスフォード |
国籍 | オーストラリア |
研究分野 | 細菌学 |
研究機関 |
アデレード大学
オックスフォード大学 ケンブリッジ大学 シェフィールド大学 オーストラリア国立大学 |
出身校 | アデレード大学 |
主な業績 | ペニシリン |
主な受賞歴 |
ノーベル生理学・医学賞(1945) ロイヤル・メダル(1951) コプリ・メダル(1957) |
プロジェクト:人物伝 |
|
フローリー男爵ハワード・ウォルター・フローリー(Howard Walter Florey, Baron Florey、1898年 9月24日 - 1968年 2月21日)はペニシリンの抽出によりエルンスト・ボリス・チェーン、アレクサンダー・フレミングとともに1945年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した生理学者である。
生涯 [ 編集 ]
南オーストラリア州のアデレードで5人兄弟の末っ子として生まれた。セントピーターズ・カレッジでは優秀な成績でアデレード大学へ進学し、1917年から1921年まで学んだ。この大学で、彼は後の妻で共同研究者になる エセル・リード と出会った。
奨学生としてオックスフォード大学のモードリン・コレッジで研究を行い、ここで学士号、修士号を取得した。そして1926年にケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジのフェローとなり、1年後に博士号を取得した。アメリカでの研究生活が終わると、彼は1931年にシェフィールド大学の生理学の教授になった。1935年に再びオックスフォードに戻り、 リンカーン・カレッジ の研究長となった。1938年、エルンスト・ボリス・チェーン、 ノーマン・ヒートリー とともにアレクサンダー・フレミングの論文を読み、 Penicillium chrysogenum の抗菌活性について議論した。彼らの研究チームはカビ由来の生成物質を大規模に探索し、抗菌活性のある成分を抽出した。そして第二次世界大戦中の1945年にペニシリンの工業生産に成功した。しかしフローリーはこの発見は科学的なメリットしかないと考えており、以下のように語っている。
人々はしばしば、我々は人類の苦しみを救うためにペニシリンを研究したと考えているが、我々の心には人々の苦しみを救うという気持ちはなかった。あくまでも科学的な興味からであり、医学的に見て満足いく結果が得られた。しかしこれは我々が研究を始めた動機ではない。
彼はまた、公衆衛生の向上による人口増加に関心を持っており、避妊の忠実な信者であった。1962年、彼はオックスフォード大学の クイーンズ・カレッジ の総長となり、総長在任中に彼の功績を讃えて フローリー・ビル と呼ばれる宿泊棟が作られた。この建物はイギリスの建築家であるジェームズ・スターリングによって設計された。
フローリーは1944年にナイトに叙され [1] 、1965年には一代貴族として男爵位を授けられ「オーストラリアにおけるアデレードとカウンティ・オヴ・オックスフォードにおける マーストン のフローリー男爵( Baron Florey, of Adelaide in the Commonwealth of Australia and of Marston in the County of Oxford)」となった [2] 。これはナイトに叙せられた発見者のフレミングよりも大きな名誉となった。同年にはメリット勲章を受章している [3] 。
フローリーは1941年に 王立協会のフェローとなり [4] 、1960年から1965年まで王立協会の会長を務めた [4] 。1966年に妻のエセルを亡くした後は、長年の共同研究者であり助手であった マーガレット・ジェニングス と1967年に再婚した。1965年から68年までオーストラリア国立大学の総長を務め、1968年にオックスフォードで心臓発作で死去した。
フローリーはオーストラリアの科学、医学界において最大の科学者だと目されている。オーストラリアで最長在任期間の首相であるロバート・メンジーズは次のように語っている。
世界の幸福という面で考えると、フローリーはオーストラリア史上最も偉大な人物である。
フローリーの肖像は、長年50オーストラリアドル紙幣に使われていた。またキャンベラ郊外には 彼の名前にちなんだ街がある。さらにメルボルン大学のハワード・フローリー研究所やアデレード大学医学部の最も大きな講堂も彼の名前を取っている。
2004年、テレビの特別番組で最も偉大なオーストラリア人に選ばれた。
受賞歴 [ 編集 ]
- 1945年 ノーベル生理学・医学賞、 リスター・メダル
- 1951年 ロイヤル・メダル
- 1954年 クルーニアン・メダル
- 1957年 コプリ・メダル
- 1960年 ヴィルヘルム・エクスナー・メダル
- 1965年 ロモノーソフ金メダル
出典 [ 編集 ]
- ^ "No. 36544". The London Gazette (Supplement) (英語). 2 June 1944. pp. 2565–2566. 2012年3月27日閲覧。
- ^ "No. 43571". The London Gazette (英語). 9 February 1965. p. 1373. 2012年3月27日閲覧。
- ^ "No. 43713". The London Gazette (英語). 16 July 1965. p. 6729. 2012年3月27日閲覧。
- ^ a b "Florey; Howard Walter (1898 - 1968); Baron Florey of Adelaide and Marston; Pathologist". Record (英語). The Royal Society . 2012年3月27日閲覧。
外部リンク [ 編集 ]
- Frank, Fenner [in 英語] (1996). "Florey, Howard Walter (1898–1968)". Australian Dictionary of Biography (英語). Canberra: Australian National University . 2012年3月27日閲覧。
- オーストラリアの病理学者
- オーストラリアの薬理学者
- オーストラリアの医師
- ノーベル生理学・医学賞受賞者
- オーストラリアのノーベル賞受賞者
- ロイヤル・メダル受賞者
- コプリ・メダル受賞者
- ロモノーソフ金メダル受賞者
- ヴィルヘルム・エクスナー・メダル受賞者
- メリット勲章
- 王立協会フェロー
- 王立協会会長
- 一代貴族
- 米国科学アカデミー会員
- オーストラリア国立大学の教員
- オックスフォード大学の教員
- シェフィールド大学の教員
- オーストラリアの紙幣の人物
- ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ出身の人物
- オックスフォード大学モードリン・カレッジ出身の人物
- アデレード大学出身の人物
- アデレード出身の人物
- 1898年生
- 1968年没