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ケレスティヌス3世 | |
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第175代 ローマ教皇 | |
教皇就任 | 1191年3月30日 |
教皇離任 | 1198年1月8日 |
先代 | クレメンス3世 |
次代 | インノケンティウス3世 |
個人情報 | |
出生 |
1106年 教皇領、ローマ |
死去 |
1198年1月8日 |
その他のケレスティヌス |
ケレスティヌス3世(Caelestinus III,
1106年
-
1198年
1月8日)は、第175代ローマ教皇(在位:
1191年
3月30日
- 1198年1月8日)。
生涯 [ 編集 ]
教皇になる前は
1191年3月30日に教皇に選出された時には既に85歳だったと考えられ、助祭のままだったため急遽4月13日に叙階され、翌
14日に教皇として聖別、旧友ケレスティヌス2世に因んでケレスティヌス3世を名乗った。15日に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世を戴冠し、その権威を示したが、老齢と温和な性格が災いしてハインリヒ6世がシチリアを征服するのを咎めなかった。1193年にイングランド王リチャード1世を無実の罪で投獄したとしてハインリヒ6世を破門、翌1194年に和解してリチャード1世の解放に手を貸したが、皇帝のシチリア再征服は咎めないままで、皇帝が
ハインリヒ6世に対しては優柔不断な態度だったが、レコンキスタが進まない
フランス王フィリップ2世の離婚問題にも介入、王から一方的に離婚宣告されたことに憤慨した王妃インゲボルグの訴えを聞き入れ、1196年3月13日にフィリップ2世へ訓告を下し、インゲボルグが生きている間は別の結婚を認めず(フィリップ2世はインゲボルグを捨てた後は訓告後の6月にアニェス・ド・メラニーと結婚したが、この訓告で無効になった)、彼女を王妃と認めアニェスとの別れを勧めたが、聞き入れられなかった。ケレスティヌス3世は何度も注意したが事態は変わらず、次の教皇インノケンティウス3世は1199年にフィリップ2世の破門と聖務停止命令を宣告することになる [7] 。
1197年にハインリヒ6世が死去、後を追うように病気に倒れたケレスティヌス3世は死の直前に教皇職を辞し、後継を指名しようとしたが、その案は枢機卿たちによって拒否された。翌1198年1月8日にローマで亡くなり、インノケンティウス3世が次の教皇に選出、遺体はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に埋葬された。優柔不断さを歴史家たちに非難されたが、ドイツ騎士団・テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団を認可してローマ教会に貢献した [2] [3] [4] [8] 。
脚注 [ 編集 ]
- ^ キリスト教人名辞典、P559 - P560、ローマックス、P156 - P157、スチュアート、P130 - P131、バンソン、P106 - P107。
- ^ a b c 新カトリック大事典編纂委員会、P763。
- ^ a b キリスト教人名辞典、P560。
- ^
a b バンソン、P107。 - ^ スチュアート、P131 - P133。
- ^ ローマックス、P162、P165 - P167、芝、P132 - P133、西川、P158 - P159。
- ^ 佐藤、P118 - P121。
- ^ スチュアート、P133。
参考文献 [ 編集 ]
- 『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。
- D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年。
- 学校法人 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典 第2巻』研究社、1998年。
- P.G.マックスウェル・スチュアート著、月森左知・菅沼裕乃訳、高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年。
- マシュー・バンソン著、長崎恵子・長崎麻子訳『ローマ教皇事典』三交社、2000年。
- 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて』書肆心水、2007年。
- 佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社(講談社現代新書)、2009年。
-
西川和子『スペイン中世列女物語
歴史を動かす"華麗"な結婚模様』
彩流社、2019年。