パチスロ 出 玉 ランキング
ベタニアの聖マリア | |
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イエスの接待に立ち働く姉マルタと説教に聴き入るマリア(画:フェルメール)
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崇敬する教派 |
正教会
非カルゲドン派 カトリック教会 聖公会 |
記念日 | 7月29日 |
マリア(ベタニアのマリア)は、新約聖書に登場する女性。
2021年、カトリック教会はマルタの記念日である7月29日にマリア、ラザロを加えることを発表、施行した [1] 。
マリアとマルタ [ 編集 ]
イエスが彼女らの家を訪れた時、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違い [2] は、伝統的に「活動的生活」(vita activa)と「観想的生活」(vita contemplativa)を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、マイスター・エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして嘉したとする独自の解釈を提出している(詳細は以下の節を参照)。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる。
香油を注ぐ [ 編集 ]
またあるとき、マリアはイエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの髪で拭った
[3]
。この話は類似のエピソード
[4]
の合成によるものかもしれない。この行為はイエスがキリスト(メシア=油を注がれし者)として祝福されること、あるいは近く来たるべき喪葬を暗示する。実際のイエスの喪葬にはマグダラのマリアが香油を用意した
マグダラのマリアとの同一視 [ 編集 ]
591年 グレゴリウス1世は、ベタニアのマリアとマグダラのマリア、またルカによる福音書に登場する「罪の女」 [6] を同一人物とした。この理解は西方教会カトリックでのみ支持され、プロテスタント、聖公会、及び東方教会の全宗派では受け入れられずに終わった。
マイスター・エックハルトの説教における取り上げられかた [ 編集 ]
文献情報 [ 編集 ]
このマリアとマルタの話を解釈した説教は、田島照久編訳『エックハルト説教集』 [7] では説教八十六と紹介されている。この参照番号はQuintによる現代ドイツ語訳の全集と同じである。一方、Pfeifferでは説教九となる。冒頭にラテン語でIntravit Iesus in quoddam castellum etc.というルカによる福音書10:38-42からの引用が掲げられている。以下の記述はすべてこの田島訳に準拠する。
マルタの発言の意図を解釈した記述
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マイスター・エックハルトは、マルタの「主よ、彼女に私の手伝いをするように命じてください」という言葉を、マルタが不機嫌になってそういったのではなく、むしろ愛から出る好意にかられて、いわば愛の叱責としてそう言った、と解釈する。すなわち、マリアがイエスのもとに座って慰めに満たされていると、自分の望むことなら何でもできるかのように思いこんでいるが、実際にそうであるかをマリアに悟らせてやって下さい、という意味とする。また同じ説教の別の個所では、マルタはマリアが歓喜と甘美さのうちに立ち留まるのではないかと心配し、そうならないように願った、と解釈している。また別の個所では、マリアがただ歓喜に酔ってそこに座ってばかりいないで、それを本質的に自らのものとするために、生きることを学んでほしい、そうしてマリアが完全なものになるように立てと命じてくださいと、マルタがイエスにお願いしたのだと解釈している。そのようなマルタの願いは、彼女の円熟した魂の奥底から出たものであった。それゆえにイエスは、「必要なことはただ一つだけである」と応えたのである。
マルタの評価 [ 編集 ]